2022.03.13 古処山でのデイキャンプ

嘉麻市にある古処山キャンプ場を訪れた.読書用の本や珈琲を忘れるなど、予定通りにはいかなかったが,屋外で新鮮な空気のもとで、ゆったりとした時間を過ごすことができた.

 

道の駅で入手した焼き鳥を焚き火で温めて食した。妻に焚き火の薪(というほど立派なものではなく、松の葉や枝だが)を焚べる作業を楽しんでもらえたことは今後に繋がる経験となった.モーラナイフで薪割りをするという夢も実現できた.

 

古処山は登山客が多いそうで,いずれは山頂で食事を楽しんだ後,キャンプ場でテント泊をする等してみたい.

 

次回のデイキャンプの備忘録として持ち物を下記に書き起こしておく.

 

・軍手

・調味料

・読書用の本

・イス

・珈琲

差別に向き合うこと

目次

 

はじめに

 「バカチョンカメラ」という言葉を知っているだろうか。僕は知らなかった。「バカ」でも「チョン」(朝鮮人)でも使える簡単な作りのカメラのことを言うらしい。これを聞いて思い出したのが「このバカチョンが」というフレーズ。もしかしたらこれも朝鮮人に対する差別発言なのかもしれない。武田鉄矢扮する金八先生のセリフとして「このバカチンが~!」が有名だったりするが、これもそうなのだろうか。武田鉄矢氏が極右思想の持主であるという噂をきいたことがあるからうがった見方をしているかもしれないが。

 前置きが長くなったが、昨日(2021年3月6日13時30分~15時00分)は、宇佐市にある隣保館で開かれた人権講演会「共に生きる社会へ―ヘイトスピーチを体験して―」に参加した。人権という身近で、かつ重大なテーマについて、聞いたこと・感じたことをきちんと言葉にしておく必要があると強く思った。だから、それをここに記録したいと思う。

 冒頭の話題で察しがつくかもしれないが、講師は在日朝鮮人の徐 麻弥(ソ マミ)さんという方だ。実は妻の学生時代からの友人で、その縁で昨年末にお会いする機会を得ることができ、その後、この講演のことも教えていただいた。

 講演内容は、主にヘイトスピーチを中心とした在日朝鮮人差別の現状とヘイトスピーチを含む講師の差別経験という二段構成で、日本における在日朝鮮人への差別の実態やそれにかかわる法制度、そして個として差別を受けることの意味について考えを巡らせる時間になった。

 

なぜ在日朝鮮人は、日本に多く存在しているのか?

 まず冒頭から私の恥を晒さねばならない。というのも「なぜ日本には『在日朝鮮人』が多く存在しているのか?」という問いにきちんと答えることができなかったからだ。

 在日朝鮮人とは、大日本帝国による朝鮮の植民地支配の結果、旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮民族とその子孫のことを指す。この定義が答えなのだ。もし植民地支配がなければ、今や4世が誕生しつつある在日朝鮮人は、日本にこれほど多く存在していることはなかったと考えられる*1

 その国籍は、韓国籍朝鮮籍、日本籍のいずれかに収まることになるが、制度上の国籍とは別に自身のアイデンティティを表す呼称として「在日朝鮮人」の他に「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」等の表記が存在している。

 

なぜヘイトスピーチはなくならないのか?

 講演では、ヘイトスピーチにまつわる日本の現状から話が始まった。

 ヘイトスピーチとは、「差別的意識を助長・誘発する目的で、生命、身体、自由、名誉、財産に危害を加えると告げることや、著しく侮辱するなどして、地域社会からの排除をあおる差別的言動」と定義される。

 2010年代から広がり、それに対応する形で2016年に対策法(「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(通称、ヘイトスピーチ解消法))が施行されている(これに「 障害者差別解消法、部落差別解消法を合わせて3本の差別解消法が同時期に施行されたそうだ。)なお、ヘイトスピーチは2013年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれている。

 この法律は「「不当な差別的言動」は許されないものであると宣言」するものだと法務省のウェブページで説明されている。それは裏を返せば、ヘイトスピーチに対する罰則規定がないことを意味する。無論、法の施行が差別解消に向けて前進を意味することに違いないのだろうが、その冠する名称ほどの実効性を期待できない点に肩透かし感を感じてしまう。

 ただ、先ほどのヘイトスピーチの定義を見れば、なぜこれが法で裁けないのかという素朴な疑問を抱いても可笑しくない。例えば、「特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えると告げる」行為は脅迫罪(刑法第222条)に該当しないのかという疑問だ。実は今日の講演の予習としてこの辺りの事は調べておいた。

 結論から言えば、脅迫罪に該当することもあるという理解になるのだと思う。僕の解釈では、論点は脅迫が特定の個人に向けられたものであるか否かだ。ヘイトスピーチは、在日朝鮮人に対して牙を向く行為であるが、それは特定の○○さんを名指しするものではない場合が多い。ヘイトスピーチを法令で禁止することが、憲法の保障する表現の自由に抵触するといった主張もここからくるものだろう。個人的には、ちゃんちゃら可笑しな話だと思う。なぜなら特定の個人を名指そうが名指すまいが、それがたとえ不特定多数に対する脅迫であったとしても、それは当該の属性を有する個人に対して、十分な効果を発揮するからだ。仮に自分が海外に居住していたとして、街角で行われる「日本人は殺せ」という演説を平然と「あれは不特定多数に対する主張であり、僕に直接投げかけられたものじゃあないから」と受け流すことができる人がこの世にいるだろうか。身の危険を感じるのが、生物としての正常な生存本能だと思うし、まして、こうした演説を自由な表現行為として行為者の権利を認めようとする者など想定し難い。つまり「自分がやられて嫌なことはしてはいけない」という小学生でも理解できる水準の話を、なんだか小難しい話を持ち出して煙に巻いているようにしか思えないのだ。これを姑息と言わずしてなんというのだろうか。

 現状ヘイトスピーチに対する国内法の罰則規定に関連しうるものとしてネットに挙げられていたのは、(1)名誉毀損罪・侮辱罪、(2)脅迫罪、(3)傷害罪、(4)信用毀損罪・威力業務妨害罪、(5)器物損壊罪あたりであった。ただ、これらもヘイトスピーチに対する直接的な罰則規定としては不十分である。

 「扇動 罪」でGoogle検索すると「民衆扇動罪」(ドイツ刑法典130条)に関するWiki情報が上がってくる。ナチスの台頭を反省した結果として「民主主義を否定することを認めない民主主義」という理念のもと「民主主義の否定やヘイトスピーチと認められる言動に対してドイツ人・非ドイツ人問わず刑事罰を課す」のだそうだ。最長で禁固5年になるらしい。日本にもこれくらいの法律が施行されなければ、ヘイトスピーチはなくならないのではないだろうか。

 …と、脱線が過ぎたが解消法の施行によって変わったこともあったそうだ。

 講演会のスライドでは「行政、裁判、事件報道、民間業者の対応」が変わったと記述されていた。YouTube等に上がっているヘイトスピーチの様子を撮影した動画を見ると、スピーチの実施者を囲むように県警が並んでいる様子が印象的だが、あれはスピーチを行うものを取り締まっているのではない。警察の目的はヘイトスピーチを止めることではなく、「デモ」を安全に終わらせようとすることなのだ。そうした警察の対応も、在日朝鮮人の人権を守る方向に変化がみられつつあるという。

 また、民間業者の在り方で言えば、アフィリエイト(成功報酬型広告)の在りかたに変化が生じている。ネット右翼の存在が証明しているように、在日朝鮮人を差別する記事を書くことは、特定のニーズを満たすものだ。これに目を付け、ブログなどに記事を書くことで小銭を稼ぐ人がいる。ただ、当該法律が施行されてからは、企業側も記事の内容に応じて依頼を取り下げるといった事例が生じているのだという。

 

ひとりの日本人としてヘイトスピーチとどう向き合うか?

 法律の施行に伴い、社会に変化が生じていることは、少し希望が感じられるニュースだ。ただし、差別問題の根本的な解消には個人の思想や行動への波及効果を求めていく必要があることは言うまでもないことだ。講演会では「トレーニングと発信」の必要性に言及されていた。

 僕の職場は、北九州市のJR折尾駅の近くだ。実は2019年にあの駅で行われた演説が遅れること約1年後にヘイトスピーチに認められたのだという。認定に要した時間の長さには驚かされるが、これは私の生活圏内でヘイトスピーチが行われる可能性が十分にあるということを意味している。もしその現場に出くわした時、自分には何ができるだろう。

 麻弥さんは、実際にヘイトスピーチを受けたことがあるという。もし自分が同じ経験をしたときにどうなってしまうのか、想像もつかないが、その時彼女が気丈にふるまうことができたのは、その場にいた仲間が「同じ場所で共に暮らしている仲間を傷つけるようなことを言うな!」といった趣旨の主張をしてくれたからだという。

 これは勇気のいることだと思った。でも、そう思って気が付いたことがある。そもそも勇気が必要なのはなぜなのかということだ。間違っていることを指摘することになぜ勇気が必要になるのだろうか。これは自分が位置する場所が、差別する者とされる者の外にいるのだと思い違いをしていることを意味するのではないだろうか。その安全圏から飛び出して、差別する者とされる者が対峙する場に足を踏み入れることが勇気を求めるのだと思う。先ほど「思い違い」という言葉をチョイスしたように、この理解は誤りだ。差別をする者を見て、見ないふりをすることは、差別に加担する行為といえる。だから本当は差別を目の当たりにしたときに、自分が差別に加担しないようにするには、差別に対する「No!」を表明する以外に方法はないのだと思う。僕はこれまで在日朝鮮人の差別について、知らないことが多すぎた。でも、麻弥さんや麻弥さんの家族と出会い、在日朝鮮人と聞いて人の表情が鮮明に思い出されるようになったことは、この問題に対する当事者意識を芽生えさせてくれたように思う。

 

経験された差別

 在日朝鮮人への差別は、ヘイトスピーチのような明示的な形でなくとも、私たちの日常生活に潜んでいることも学んだ。

 家を借りる時、在日朝鮮人であることを理由に、親以外で県内に在住する保証人を出すことを求められる、バイト先で名前を日本風にするように求められる(創氏改名の現代版のようだ)、結婚式に参列する際にチマチョゴリ(チマチョゴリは、自身の民族的アイデンティティを確認することのできる物の一つだが、過去にはチマチョゴリを着る者に危害を加える事件があったことを僕はこの公演で初めて知った。詳細はチマチョゴリ切り裂き事件を参照されたい)を着ることを敬遠される、結婚をするにあたって、在日朝鮮人であるというだけで、相手の両親に忌避されること、他にも永住権を持っているにも関わらず、再入国時に許可を得ることが必要なこと(他の民族は2年以内の出入りに許可申請が不要なのだか、驚くべきことに在日朝鮮人はそこからも除去されている)、同じように消費税を納めているにもかかわらず、保育料が無償化されていないこと(今、署名活動が展開している)。挙げれば枚挙に暇がない差別の事実に、そのようなことを知らず、同じ日本というこの国で平和に暮らしてきたことに罪悪感が芽生えてくる。

 

罪の意識

 勿論、僕はこれまで差別を積極的に行なってきたわけではない。でも、残念なことにそれに加担してきた事実からは逃れることができない。差別に対するこれまでの自分の不作為はやはり罪なのだ。

 だからこそ自責の念にかられ、贖罪の方法を模索しないではいられなくなるのだが、こうした心情の移ろいに対しては、意識的であるべきだと思う。なぜならこの感情には防衛規制が働く可能性があるからだ。自分の罪を意識し続けることは、精神的に楽なことではない。そのため、事実から逃避する事でその負担を除去しようとするのが生理的な現象なのではないだろうか。

 罪の意識から逃れ、自分を擁護したくなる気持ちと向き合うなかで、本当に見失ってはならないのは、差別を受ける者の人権なのだ。

 

憎しみとの付き合い方

 差別の事実と向き合う中で、罪悪感の他に芽生えたのが憤りだ。約90分の講演は僕にとって一瞬の出来事だったが、その間に消費されたエネルギーは、相当のものだったと思う。語弊を恐れずに書けば、それくらい「疲れた」。その原因は、目まぐるしく移ろいゆく感情にあるのだと思う。この会を通じて参加者は、講師の受けた差別を疑似的に経験し、時に深い悲しみに苛まれ、時に激しく憤る。

 こうした体験を振り返るなかで、心に留めておきたいと思われたのは、「憎しみとの付き合い方」とでもいうべきテーマだ。

 先の折尾で行われたスピーチの中には、「韓国人は東日本大震災を祝福している、そのような行為を許すな」という趣旨の主張があった。あるサッカーの試合で、観戦席に掲げられた横断幕にそういった趣旨の文章が掲載されていたことは事実なのだそうだ。ただし、ここで急いで指摘しなければならないのは、そうした事実を拡大解釈し、あたかも「韓国人」という民族が、日本人の被災を喜んでいるといった誤った「事実」を吹聴し、民衆を扇動する行為の卑劣さだ。

 残念なことに、上記と同質の扇動行為は、ネット上に蔓延しており、多くの人々を巻き込みながら「憎しみ」を増幅し、終わることのない不毛な水掛け論を生み出し続けている。「憎しみ」は攻撃性を持った感情であり、嫌韓嫌日の源泉となっているのだとすれば、差別問題を考える上で、「憎しみ」という感情から適切に距離を置く力が求められるのだと思う。そうした難しさがこの問題にはあるのだと思う。

 

さいごに

 講演の最後で参加者に向けて送られたメッセージは、「声なき声を聴く 伝えていく みんなと共に 人間を諦めずに共に 子どもたちを加害者にしないために 子どもたちを被害者にしないために みんなが自分らしく いきいきと生きられる『豊かな社会』の実現」にむけて「やさしさと勇気」を大切にしようというものだ。

 このメッセージを自分の立場に引き付けて受け止めるならば、人権について学んだり教育したりすること大切さだと思う。

 麻弥さんは、高校生の頃に「朝鮮文化研究会(朝文研[3])」に出会い、そこで「在日朝鮮人ってたくさんいるんだ!」と驚いたそうだ。この経験の裏にあるのは、在日朝鮮人の多くが、民族名ではなく日本名を名乗らざるを得ない実情だろう。

 彼女の親戚は、小学生の頃に喧嘩をした際「韓国人のくせに」と級友から罵られたことがあるそうだ。問題の深刻さは、誹謗中傷の手段として小学生が民族性に言及したという事実にある。なぜ小学生のうちからそのような思想が定着しているのだろうか。講演では、「『みんな』と違うことは悪である」という価値観が、小学校の段階で育まれている可能性に言及されていた。

 差別問題には、よく「寝た子を起こすな」という主張が持ち出される。差別の事実を知らなければそこに走ることはないという考え方だ。ただ、こうした考え方は、先ほどの小学生の例に照らせば明確に誤りだといえる。小学生はすでに目覚めているのだ。まして、ネットが発達した現代社会では、目覚めが加速されており、恐ろしいことに偏った思想を注入する装置としても機能している。

 だからこそ、子どもの頃から人権感覚を磨いていく必要があるし、子どもたちに背中で語れる大人の存在が必要なのだと思う。年齢に限ったことではないが、僕らは本当に信頼のおける人間の言葉にしか耳を貸す事ができない生き物だ。教員養成に携わる身として、差別の再生産に片棒を担ぐことのないように、まずは我が振りを直すことから始めなければならないのだ。

*1:歴史的経緯を知っていれば、ヘイトスピーチにおける常套句の一つである「日本が嫌なら国へ帰れ」という主張がいかにアンフェアで卑劣なものかがよくわかる。。

高等教育に関して最近感じたこと

東洋経済が「就活は大学1年生から」と言ってるけど、「学生には勉強に集中させてあげてください」と心底思う。」(https://blog.tinect.jp/?p=49771)

最近、卒論の意義とかについて色々と考えさせられる出来事があったので、この記事をよんで思ったことを少し頭の体操として考えてみようと思う。

この記事で主張されていることに、あえて批判的な視点を探してみる。すると、大学生の間に学ぶべきことはいったい何なのかという議論が抜けているような気がした。大学生の間だからこそ大学の外でしか学べないことを学ぶことができるというのもまた1つの事実なのではないかという考え方だ。

4年間というモラトリアム期間を金で買って(もらって?)、その時間を羨ましいくらいに自由に消費し、謳歌してきた世代つまり、必ずしも学問に向き合うことだけが大学生の時間の使い方ではないと信じている人が多い世代からすれば(この見立てが妥当かは批判的な検討が必要だけど)、就活生に期待するものが「一緒に働きたいと思える奴かどうか」という印象に基づく、いわゆるコミュ力とか社会人基礎力に傾いてしまうのは至極当然なのではないかと思う。

たとえ専門性を極めることで得た知識やそれを活用して、批判的に思考する能力が極めて優れていたとしても(この力を身につけるだけでも一筋縄では行かない)、例えば、社会に身を投じていく過程で、向き合わざるを得ない沢山の不条理を受け入れていく力が備わっていなければ絵に描いた餅ばかりが生まれるだけになってしまうわけで。

問題の所在は、高等教育をサービスとして消費する社会(明確な目的意識を持ったものだけが、進学するのではない社会とか、5割が大学に進学する社会とか言い換えられそう)において、社会が生産活動の質をより高められる人材をどのように育んでいくべきかについて、明確なビジョンが描けていないことなのではないか。

個人的には、大学の4年間を思っ切り遊び倒すために特化して時間を使う学生がいてもいいと思う。まあ、そういう人よりも、ちょっとくらいとっつきにくい人柄でも1年生から学部の専攻にどっぷり浸かって、朝から晩まで読書したり、友人と喧嘩まがいの議論をやりあったりすることができる人の方が圧倒的に好感がもてるけども。

話を元に戻すと、企業の青田刈りを批判するのは簡単だから、企業が学歴というシグナルに依存するという安直な態度を改め、高卒であっても果敢に社会に進出していこうとする気概のある若者を積極的に評価して、育てていこうとする(やはり気概のある)姿勢を持てるよう、社会的にそういった企業を応援していく風土をいかに育んでいけるか、という点こそが論点なのではないかと思った。

「ハンナ・アーレント」(字幕版)を鑑賞した

Amazon 「prime video」のサービスを利用してみた。

 このサービスの利点は、300円ほどの手頃な価格帯で、観たいと感じた時にその場で、色んな映画をレンタルできてしまうことだ。購入後約1ヶ月以内は鑑賞可能というのもありがたい(ただし再生ボタンを押した後は、その後3日間のみ再視聴可能)。

難点は没入感があまり得られないことか。アクション系を観て爽快感を得たいだとか、感動してストレスを解消したいだとか、そういうときには映画館に行った方がいいんだろうな。まあ、このサービスに関わらずDVDとかもそうだし、あたりまえか。個人的にはサービス内容には十分満足することができた。

 

さて、内容についてざっくり整理すると、ユダヤ人として差別を受け、命の危機に瀕した経験をもつハンナが、「悪の凡庸さ」を発見するお話。またその前後のハンナの生活を描いたもの。

ユダヤ人の中にも、消極的であれ差別行為や虐殺行為に加担してしまっていた者がいたというハンナの主張が、さまざまなところから強烈な批判となって返ってくる様子が描かれる物語の後半は、学問人だとか知識人だとか、なんらかの価値規範について、職業として主張を行うような人々が背負っている社会的な責任の重さを学ぶ上でよい教材になると思った。どれだけ批判を受けても、その批判点と照らし合わせた上で、それでもなお自分の主張は間違っていないという態度を貫いたハンナ・アーレントの偉大さに触れると、知識人なんていう言葉はチープになったなぁと思う。ネットを介して誰もが気軽に、不特定多数に対して主義主張を発信できる世の中では、誰もが上述した責任を負っているわけで、チープさは批判されるべきことではなくて、むしろ望ましいことなのかもしれないと思ったりもする。

 

余談になるが、ハンナの主張に対する批判は、的を射たものではなかったとして、「炎上」は一度おさまるのだが、彼女の「BOSS」であるハイデガーとの子弟の壁を超えた不倫関係が暴露されることで「再燃」したのだとか。つまり、彼女の主張は真理を探究する行為としてのそれではなく、愛人であった者としての単なる愛情表現の域を出ないというわけだ(ハイデガーは、戦時中ドイツ側についていた)。劇中では、この点についてはソフトに描写されているが、いつの時代も人々のゴシップへの関心は変わらないんだなーと。

 

一要因の分散分析について学んだ

1.はじめに

 今年度から教育工学の先生が主催されている「英語ゼミ」というゼミに参加している。

 

○英語ゼミでの活動内容について
 このゼミは、主に海外の優良ジャーナルから定量的な研究方法を採用している論文を取り上げて、教員の指導のもと、毎週担当を決めて論評を行うものである。


○このゼミに参加している理由
 私がこのゼミに参加している理由は、定期的に英文を読み込み、それを咀嚼しアウトプットするための強制力をアウトソーシングすることができること、統計に関する基礎的な知識を得ることができること、他領域における学術システムに触れる中で、自身の所属する学術領域の特徴を相対化させることができることなどのメリットを感じているからだ。


○先日のゼミで読んだ論文について
 先日は、"A scaffolding strategy to develop handheld sensor-based vocabulary games for improving students' leaning motivation and performance"を取り上げて議論をした。
 この論文は、「足場ストラテジー」というヴィゴツキー由来の理論をもとに、開発した学習ツールの効果測定をすることを目的にしていた。この論文について議論するなかで、一要因の分散分析という分析手法について学ぶ機会があったので備忘録としてブログに残しておくことにする。


2.一要因の分散分析(ANOVA)

○ANOVAとは
 ANOVAを一言で説明するなら、「3つ以上のグループ(水準)の内、すくなくとも一つのグループの組み合わせに関して、その平均に有意な差があるかどうか」を調べるための分析手法ということになると思う。もちろん、一言で説明するのが難しいからこそ、咀嚼したことをこうしてブログにしているわけなのでなかなかうまく定義することができない。

 ANOVAの目的は、「推定する母集団における『要因』の各『水準』ごとの平均値に差があるかどうかを検討すること」と表現される。


○ANOVAを使わなければならないのはどんなときか
 2つのグループそれぞれの平均において有意な差があるかどうかを調べるのであればt検定を使うことになる。問題なのは、3つ以上のグループについて、それぞれの水準における平均に有意な差があるかどうかを調べるとき。こうした検討を行うには、「多重比較」という手法を用いなければならない。この場合、グループ1と2、2と3、3と1といった感じで、一つ一つ検証していく方法が考えられるわけだけども、これをやってしまうと、グループの数が増えるにつれて(つまり検証をするたびに)有意に差があると判断される確率が高くなってしまうのだ。だから、一発で検証を行う手法を用いる必要がでてきてしまうのだ。この点については、下記のwebページがとってもわかりやすく説明してくださっていた。ありがたや。


http://kogolab.chillout.jp/elearn/hamburger/chap6/sec1.html


○論文の評価について
 ということで、先の論文の話にもどるわけだが、この論文についてゼミで議論になったのが、リサーチクエッションと実現可能であった調査設計に対して最適な分析手法が採用されていないのではないかという点だ。まずは、この論文の目的と方法について簡単に整理しておく。

○RQ
本論文のRQは以下のとおり。
①学習ツールは、学習者のパフォーマンスを向上させることができたのか?
②学習ツールは、学習者の記憶に寄与しうるのか?
③学習ツールは、学習者の動機づけに効果があるのか?


○調査設計
以上のRQに対して、論者は、総計65名の大学生を調査協力者とし、これを、学習ツールをつかって学習を行った群と使わなかった群に分けて対照実験を行い、テストを用いた効果測定を行っている。テストは、事前と事後に加え、遅延テストという実験の一週間後に行われるテストを含めた3回に分けて行われた。


分析
以上のテストによって得られたスコアデータの平均を分析するわけだが、分析手法については、データが正規分布ではなかったことと、サンプルサイズが小さかった(調査協力者が少なかった)ことからU検定が採用されていた。


論文が犯していた過ちについて
 問題だとされた点は、2つあった。一つは、本論文が、先行研究において開発されているスケールを援用しているのにもかかわらず、質問項目群を恣意的に操作している点。そして、こちらが本題になるが、本論文が犯している決定的なミス、それは、事前,事後,遅延テストそれぞれについて、実験群と統制群の検定を行っているだけでスコアデータの分析が終わっており、それぞれのテストの時系列的な差については、分析がなされていなかったことだ。これでは、交互作用(※1)が働いている可能性を払拭することができない。このような文脈で用いられることになるのが、通称「ANOVA」と呼ばれる分析手法、一要因の分散分析ということであった。

 

3.まとめ
ANOVAについて理解できたこと

3つ以上のグループの平均値の差について検定を行う場合は、ANOVAが有効であることを理解できたことは、今後、社会学的な調査設計を意識した研究構想につながる点で非常に意味のある学習であったと思う(ただ、実際に調査を行う場合は、必要となるサンプルの数や、質問紙の作成方法などまだまだ知識が必要だと思う)。


ゼミを受けていて感じること
対象の大きさ(例えば、社会制度を対象にするのか、教授法の影響力を対象にするのか)の違いによって、論文の読み方も書き方も大きく異なってくるな~と思うことがしばしばある。たとえば、テストスコアを入手することができれば、最適化された分析手法にもとづいた考察が「ひとまず」(この点は重要だと思う)可能となる点などは、政府間の権力構造を考察する研究などとは、「一端の」アウトプットにたどり着くまでのスパンが大きくことなってくる。それは、領域間で博士論文提出までのステップとして必要となる条件の違いとしても実際に現れている。今は、まだまだうまく言語化できないがこの点については、今後も考えていきたいと思う。


○参考にした文献やウェブサイト・ウェブページ
http://d.hatena.ne.jp/hoxo_m/20100917/p1
http://mcn-www.jwu.ac.jp/~kuto/kogo_lab/psi-home/stat2000/DATA/07/09.HTM
http://kogolab.chillout.jp/elearn/hamburger/index.html

浦上昌則・脇田貴文2011:『心理学・社会科学研究のための調査系論文の読み方』東京図書.

 

○2017年10月23日加筆修正

読後ノート『ストーリー・セラー』(有川浩, 2015)

 本書は、「小説新潮」2008年5月号別冊に収録された「Story Seller」をSide:Aとし、2010年8月に新潮社より刊行された単行本にて書き下ろされたSide:Bとの2本立てで構成されている。
本書の登場人物は、小説家である妻と彼女の作品の読者であり、よき理解者である夫である。物語は、彼らが職場で出会い、永遠の愛を誓い、そして「別れる」までをえがいたものである。

Side:Aでは、「読む側」の人間である夫の視点から、「書く側」にある妻を、Side:Bでは逆に、妻の視点から物語が描かれているため2本合わせて完結する話のように見えるが、そこで展開される物語自体は異なる内容となっており、それぞれで完結する内容として捉えることも可能である。

感想
・人付き合いを行う上で避けることのできない煩わしさが現実的で、有川らしいリアリティあふれる描写に引き込まれる。登場人物のエゴなど黒い部分がしっかりと描きだされているところが、人情の機微を味わうことのできる要因なのだと思う。有川の作品では同様にいつも感じていることだ。妻が自身の父親を罵るシーンは、妻が言語化せずに心の中にとどめているわだかまりを、これでもかというくらいに明瞭に描きだしている。

・個人的には、Side:AよりもSide:Bのほうが読後感がすっきりしていて好みだ。理由は直感的には、やはり有川自身が男性よりも女性の視点を描くのが上手いというか、よりリアルに描けるからなのではないかと思う。

教育実践という対象の所在と教育実践を学問するための方法に関する試論

「教育実践学の射程と方法について論じよ」という問題について、以前から定期的に向き合う機会を大学の授業でいただいてきた。当初は、「教育実践」という概念をどのように捉えればよいのかわからなかったことが原因で、トートロジーを感じながらの自分の論述に苦しんだ記憶がある。

 
 
 
当時の苦しみの中で仕上がってしまった頭の中の混線が、するりとときほぐされたかのような感覚を覚えたのが、先般『制度ー人類社会の進化』(河合香吏編著,2013年)の序章を読んでいた時のことであった。学府内のつながりから、近隣の大学を巻き込み生まれた「自主ゼミ」での課題図書だ。
 
 
本書では、そのタイトルである「制度」という概念そのものへの検討がなされている。興味深いと思ったのは、実践(プラクティス)という概念が制度を捉える上で重要な関係性をもちうるのではないかという主張にある。本書では、実践を下記のような概念図において端的に明示している。
 
 
 
図 「「実践(プラクティス)」の概念に関する図式」
 
[觀念]institution ↔︎ convention ↔︎ practice↔︎ (interactive)behaivour[身体]
 
 
 
上記の図式が示しているのは「行為や行動の集積から習律や習慣、つまりコンベンションを導く」際に、その中間項として、実践(プラクティス)なる概念を想定してもよいのではないかという提案である。実践(プラクティス)という語は、人類学において常習行為、慣行、慣例、習慣、ならわし、癖などと訳されてきたそうであるが、「なんらかの行為、行動をする明確な理由、あるいは行為・行動のプロセスについての意義や「気づき」がそこにはない」のが実践であるとされている(10頁)。
 
 
 
教育実践学が「教育実践」なる対象を前提とした学問であると考えるならば、教育現場に置いて、その行為を行う際に明確な理由が共有されていないケースが、まさに教育実践たりうるのであろう。学問が、そこで生じるすべての現象を体系化することの試みであるとするならば、教育実践学という学問は、その対象たる教育実践とはなんであるのか、を先の定義に準じて模索することから始まる学問領域といえるのではないだろうか。
 
 私が卒業論文の中で取り扱おうとした、教師がめあてを導入時に板書するという行為は、まさに上図のどこかの中間項に位置するのではないかと感じたことも、先述したような感覚を覚えた理由のひとつだったのかもしれない。