差別に向き合うこと

目次

 

はじめに

 「バカチョンカメラ」という言葉を知っているだろうか。僕は知らなかった。「バカ」でも「チョン」(朝鮮人)でも使える簡単な作りのカメラのことを言うらしい。これを聞いて思い出したのが「このバカチョンが」というフレーズ。もしかしたらこれも朝鮮人に対する差別発言なのかもしれない。武田鉄矢扮する金八先生のセリフとして「このバカチンが~!」が有名だったりするが、これもそうなのだろうか。武田鉄矢氏が極右思想の持主であるという噂をきいたことがあるからうがった見方をしているかもしれないが。

 前置きが長くなったが、昨日(2021年3月6日13時30分~15時00分)は、宇佐市にある隣保館で開かれた人権講演会「共に生きる社会へ―ヘイトスピーチを体験して―」に参加した。人権という身近で、かつ重大なテーマについて、聞いたこと・感じたことをきちんと言葉にしておく必要があると強く思った。だから、それをここに記録したいと思う。

 冒頭の話題で察しがつくかもしれないが、講師は在日朝鮮人の徐 麻弥(ソ マミ)さんという方だ。実は妻の学生時代からの友人で、その縁で昨年末にお会いする機会を得ることができ、その後、この講演のことも教えていただいた。

 講演内容は、主にヘイトスピーチを中心とした在日朝鮮人差別の現状とヘイトスピーチを含む講師の差別経験という二段構成で、日本における在日朝鮮人への差別の実態やそれにかかわる法制度、そして個として差別を受けることの意味について考えを巡らせる時間になった。

 

なぜ在日朝鮮人は、日本に多く存在しているのか?

 まず冒頭から私の恥を晒さねばならない。というのも「なぜ日本には『在日朝鮮人』が多く存在しているのか?」という問いにきちんと答えることができなかったからだ。

 在日朝鮮人とは、大日本帝国による朝鮮の植民地支配の結果、旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮民族とその子孫のことを指す。この定義が答えなのだ。もし植民地支配がなければ、今や4世が誕生しつつある在日朝鮮人は、日本にこれほど多く存在していることはなかったと考えられる*1

 その国籍は、韓国籍朝鮮籍、日本籍のいずれかに収まることになるが、制度上の国籍とは別に自身のアイデンティティを表す呼称として「在日朝鮮人」の他に「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」等の表記が存在している。

 

なぜヘイトスピーチはなくならないのか?

 講演では、ヘイトスピーチにまつわる日本の現状から話が始まった。

 ヘイトスピーチとは、「差別的意識を助長・誘発する目的で、生命、身体、自由、名誉、財産に危害を加えると告げることや、著しく侮辱するなどして、地域社会からの排除をあおる差別的言動」と定義される。

 2010年代から広がり、それに対応する形で2016年に対策法(「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(通称、ヘイトスピーチ解消法))が施行されている(これに「 障害者差別解消法、部落差別解消法を合わせて3本の差別解消法が同時期に施行されたそうだ。)なお、ヘイトスピーチは2013年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれている。

 この法律は「「不当な差別的言動」は許されないものであると宣言」するものだと法務省のウェブページで説明されている。それは裏を返せば、ヘイトスピーチに対する罰則規定がないことを意味する。無論、法の施行が差別解消に向けて前進を意味することに違いないのだろうが、その冠する名称ほどの実効性を期待できない点に肩透かし感を感じてしまう。

 ただ、先ほどのヘイトスピーチの定義を見れば、なぜこれが法で裁けないのかという素朴な疑問を抱いても可笑しくない。例えば、「特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えると告げる」行為は脅迫罪(刑法第222条)に該当しないのかという疑問だ。実は今日の講演の予習としてこの辺りの事は調べておいた。

 結論から言えば、脅迫罪に該当することもあるという理解になるのだと思う。僕の解釈では、論点は脅迫が特定の個人に向けられたものであるか否かだ。ヘイトスピーチは、在日朝鮮人に対して牙を向く行為であるが、それは特定の○○さんを名指しするものではない場合が多い。ヘイトスピーチを法令で禁止することが、憲法の保障する表現の自由に抵触するといった主張もここからくるものだろう。個人的には、ちゃんちゃら可笑しな話だと思う。なぜなら特定の個人を名指そうが名指すまいが、それがたとえ不特定多数に対する脅迫であったとしても、それは当該の属性を有する個人に対して、十分な効果を発揮するからだ。仮に自分が海外に居住していたとして、街角で行われる「日本人は殺せ」という演説を平然と「あれは不特定多数に対する主張であり、僕に直接投げかけられたものじゃあないから」と受け流すことができる人がこの世にいるだろうか。身の危険を感じるのが、生物としての正常な生存本能だと思うし、まして、こうした演説を自由な表現行為として行為者の権利を認めようとする者など想定し難い。つまり「自分がやられて嫌なことはしてはいけない」という小学生でも理解できる水準の話を、なんだか小難しい話を持ち出して煙に巻いているようにしか思えないのだ。これを姑息と言わずしてなんというのだろうか。

 現状ヘイトスピーチに対する国内法の罰則規定に関連しうるものとしてネットに挙げられていたのは、(1)名誉毀損罪・侮辱罪、(2)脅迫罪、(3)傷害罪、(4)信用毀損罪・威力業務妨害罪、(5)器物損壊罪あたりであった。ただ、これらもヘイトスピーチに対する直接的な罰則規定としては不十分である。

 「扇動 罪」でGoogle検索すると「民衆扇動罪」(ドイツ刑法典130条)に関するWiki情報が上がってくる。ナチスの台頭を反省した結果として「民主主義を否定することを認めない民主主義」という理念のもと「民主主義の否定やヘイトスピーチと認められる言動に対してドイツ人・非ドイツ人問わず刑事罰を課す」のだそうだ。最長で禁固5年になるらしい。日本にもこれくらいの法律が施行されなければ、ヘイトスピーチはなくならないのではないだろうか。

 …と、脱線が過ぎたが解消法の施行によって変わったこともあったそうだ。

 講演会のスライドでは「行政、裁判、事件報道、民間業者の対応」が変わったと記述されていた。YouTube等に上がっているヘイトスピーチの様子を撮影した動画を見ると、スピーチの実施者を囲むように県警が並んでいる様子が印象的だが、あれはスピーチを行うものを取り締まっているのではない。警察の目的はヘイトスピーチを止めることではなく、「デモ」を安全に終わらせようとすることなのだ。そうした警察の対応も、在日朝鮮人の人権を守る方向に変化がみられつつあるという。

 また、民間業者の在り方で言えば、アフィリエイト(成功報酬型広告)の在りかたに変化が生じている。ネット右翼の存在が証明しているように、在日朝鮮人を差別する記事を書くことは、特定のニーズを満たすものだ。これに目を付け、ブログなどに記事を書くことで小銭を稼ぐ人がいる。ただ、当該法律が施行されてからは、企業側も記事の内容に応じて依頼を取り下げるといった事例が生じているのだという。

 

ひとりの日本人としてヘイトスピーチとどう向き合うか?

 法律の施行に伴い、社会に変化が生じていることは、少し希望が感じられるニュースだ。ただし、差別問題の根本的な解消には個人の思想や行動への波及効果を求めていく必要があることは言うまでもないことだ。講演会では「トレーニングと発信」の必要性に言及されていた。

 僕の職場は、北九州市のJR折尾駅の近くだ。実は2019年にあの駅で行われた演説が遅れること約1年後にヘイトスピーチに認められたのだという。認定に要した時間の長さには驚かされるが、これは私の生活圏内でヘイトスピーチが行われる可能性が十分にあるということを意味している。もしその現場に出くわした時、自分には何ができるだろう。

 麻弥さんは、実際にヘイトスピーチを受けたことがあるという。もし自分が同じ経験をしたときにどうなってしまうのか、想像もつかないが、その時彼女が気丈にふるまうことができたのは、その場にいた仲間が「同じ場所で共に暮らしている仲間を傷つけるようなことを言うな!」といった趣旨の主張をしてくれたからだという。

 これは勇気のいることだと思った。でも、そう思って気が付いたことがある。そもそも勇気が必要なのはなぜなのかということだ。間違っていることを指摘することになぜ勇気が必要になるのだろうか。これは自分が位置する場所が、差別する者とされる者の外にいるのだと思い違いをしていることを意味するのではないだろうか。その安全圏から飛び出して、差別する者とされる者が対峙する場に足を踏み入れることが勇気を求めるのだと思う。先ほど「思い違い」という言葉をチョイスしたように、この理解は誤りだ。差別をする者を見て、見ないふりをすることは、差別に加担する行為といえる。だから本当は差別を目の当たりにしたときに、自分が差別に加担しないようにするには、差別に対する「No!」を表明する以外に方法はないのだと思う。僕はこれまで在日朝鮮人の差別について、知らないことが多すぎた。でも、麻弥さんや麻弥さんの家族と出会い、在日朝鮮人と聞いて人の表情が鮮明に思い出されるようになったことは、この問題に対する当事者意識を芽生えさせてくれたように思う。

 

経験された差別

 在日朝鮮人への差別は、ヘイトスピーチのような明示的な形でなくとも、私たちの日常生活に潜んでいることも学んだ。

 家を借りる時、在日朝鮮人であることを理由に、親以外で県内に在住する保証人を出すことを求められる、バイト先で名前を日本風にするように求められる(創氏改名の現代版のようだ)、結婚式に参列する際にチマチョゴリ(チマチョゴリは、自身の民族的アイデンティティを確認することのできる物の一つだが、過去にはチマチョゴリを着る者に危害を加える事件があったことを僕はこの公演で初めて知った。詳細はチマチョゴリ切り裂き事件を参照されたい)を着ることを敬遠される、結婚をするにあたって、在日朝鮮人であるというだけで、相手の両親に忌避されること、他にも永住権を持っているにも関わらず、再入国時に許可を得ることが必要なこと(他の民族は2年以内の出入りに許可申請が不要なのだか、驚くべきことに在日朝鮮人はそこからも除去されている)、同じように消費税を納めているにもかかわらず、保育料が無償化されていないこと(今、署名活動が展開している)。挙げれば枚挙に暇がない差別の事実に、そのようなことを知らず、同じ日本というこの国で平和に暮らしてきたことに罪悪感が芽生えてくる。

 

罪の意識

 勿論、僕はこれまで差別を積極的に行なってきたわけではない。でも、残念なことにそれに加担してきた事実からは逃れることができない。差別に対するこれまでの自分の不作為はやはり罪なのだ。

 だからこそ自責の念にかられ、贖罪の方法を模索しないではいられなくなるのだが、こうした心情の移ろいに対しては、意識的であるべきだと思う。なぜならこの感情には防衛規制が働く可能性があるからだ。自分の罪を意識し続けることは、精神的に楽なことではない。そのため、事実から逃避する事でその負担を除去しようとするのが生理的な現象なのではないだろうか。

 罪の意識から逃れ、自分を擁護したくなる気持ちと向き合うなかで、本当に見失ってはならないのは、差別を受ける者の人権なのだ。

 

憎しみとの付き合い方

 差別の事実と向き合う中で、罪悪感の他に芽生えたのが憤りだ。約90分の講演は僕にとって一瞬の出来事だったが、その間に消費されたエネルギーは、相当のものだったと思う。語弊を恐れずに書けば、それくらい「疲れた」。その原因は、目まぐるしく移ろいゆく感情にあるのだと思う。この会を通じて参加者は、講師の受けた差別を疑似的に経験し、時に深い悲しみに苛まれ、時に激しく憤る。

 こうした体験を振り返るなかで、心に留めておきたいと思われたのは、「憎しみとの付き合い方」とでもいうべきテーマだ。

 先の折尾で行われたスピーチの中には、「韓国人は東日本大震災を祝福している、そのような行為を許すな」という趣旨の主張があった。あるサッカーの試合で、観戦席に掲げられた横断幕にそういった趣旨の文章が掲載されていたことは事実なのだそうだ。ただし、ここで急いで指摘しなければならないのは、そうした事実を拡大解釈し、あたかも「韓国人」という民族が、日本人の被災を喜んでいるといった誤った「事実」を吹聴し、民衆を扇動する行為の卑劣さだ。

 残念なことに、上記と同質の扇動行為は、ネット上に蔓延しており、多くの人々を巻き込みながら「憎しみ」を増幅し、終わることのない不毛な水掛け論を生み出し続けている。「憎しみ」は攻撃性を持った感情であり、嫌韓嫌日の源泉となっているのだとすれば、差別問題を考える上で、「憎しみ」という感情から適切に距離を置く力が求められるのだと思う。そうした難しさがこの問題にはあるのだと思う。

 

さいごに

 講演の最後で参加者に向けて送られたメッセージは、「声なき声を聴く 伝えていく みんなと共に 人間を諦めずに共に 子どもたちを加害者にしないために 子どもたちを被害者にしないために みんなが自分らしく いきいきと生きられる『豊かな社会』の実現」にむけて「やさしさと勇気」を大切にしようというものだ。

 このメッセージを自分の立場に引き付けて受け止めるならば、人権について学んだり教育したりすること大切さだと思う。

 麻弥さんは、高校生の頃に「朝鮮文化研究会(朝文研[3])」に出会い、そこで「在日朝鮮人ってたくさんいるんだ!」と驚いたそうだ。この経験の裏にあるのは、在日朝鮮人の多くが、民族名ではなく日本名を名乗らざるを得ない実情だろう。

 彼女の親戚は、小学生の頃に喧嘩をした際「韓国人のくせに」と級友から罵られたことがあるそうだ。問題の深刻さは、誹謗中傷の手段として小学生が民族性に言及したという事実にある。なぜ小学生のうちからそのような思想が定着しているのだろうか。講演では、「『みんな』と違うことは悪である」という価値観が、小学校の段階で育まれている可能性に言及されていた。

 差別問題には、よく「寝た子を起こすな」という主張が持ち出される。差別の事実を知らなければそこに走ることはないという考え方だ。ただ、こうした考え方は、先ほどの小学生の例に照らせば明確に誤りだといえる。小学生はすでに目覚めているのだ。まして、ネットが発達した現代社会では、目覚めが加速されており、恐ろしいことに偏った思想を注入する装置としても機能している。

 だからこそ、子どもの頃から人権感覚を磨いていく必要があるし、子どもたちに背中で語れる大人の存在が必要なのだと思う。年齢に限ったことではないが、僕らは本当に信頼のおける人間の言葉にしか耳を貸す事ができない生き物だ。教員養成に携わる身として、差別の再生産に片棒を担ぐことのないように、まずは我が振りを直すことから始めなければならないのだ。

*1:歴史的経緯を知っていれば、ヘイトスピーチにおける常套句の一つである「日本が嫌なら国へ帰れ」という主張がいかにアンフェアで卑劣なものかがよくわかる。。