三島由紀夫(1956)『金閣寺』読了

 開口一番の最悪のネタバレになるが、読後の感想は、まず「死なんのかーい」だ。だが、そうであるからこそ、本作で描かれる主人公・溝口青年の人格に一貫性が宿るというものだと理解が追いつく体験をすることになった。「滑稽さ」とも解説では評されていたが、主人公の為人は、決して気持ちの良いものではない。しかし、その気持ち悪さの所以は、そこに自分を見るからでもあるだろう。個人的には徒弟制の下での師に対する屈折した感情の描写と向き合うが嫌だった。そうした精神世界に身を浸すことは、楽しいものではないのだ。しかし、昨今その快楽性ゆえに(?)大量生産・大量消費される、いわゆる「なろう系」との対照性に鑑みれば、それもまた古典としての魅力のひとつなのであり、他の凡作と一線を画する所以にもなろう。
 と、居丈高な感想を述べるしか脳がない私もまた凡百の一人である。何を隠そう三島由紀夫の作品をまともに味わったのは、これが最初だ。最高傑作との呼び声もある本作に触れるきっかけとなったのは、先月行われた参院選を扱った「ゲンロン」の特番を見たからだ。番組の中で、東浩紀氏が『金閣寺』を学問を志す者にとって必読と断じていたのだが、未履修である私は、これを恥じ消極的な理由で本作を手に取っている。

 

https://www.youtube.com/live/ij-BNriNR9A?si=H-LE2oVTN-zMUKzR


 奇しくも本作を読み、読後の感想を書き連ねている今は、戦後80周年の終戦記念を跨ぐ2025年の盆である。今年は、三島生誕100周年でもあるのだが、解説で記されているように、三島の生の緻密性に鑑みれば、終戦年と彼の誕生年のキリ良い関係は、必然性を宿すものらしい。その是非の判断には、それ程の強い関心は持たないが、確かにそう思わせる程に、本作における描写には、明晰さが備わっている。

 なお、本作は、三島が31歳で表した作品なのだそうだ。既にその年齢を超えた私からすると、どう思考すれば、このような明晰な文章表現が可能となるのか検討もつかないが、解説によれば「ニュース・ストオリー」、すなわち実際に起こった出来事をオマージュするというある種の「縛り」が彼の真価を発揮させているのだという。10章構成かつ、各章の分量も均等なのだというのも、計画的なものなのだろう。連載形式で編まれた点も少なからず本作に影響を及ぼしているとは思う。
 私が本作の魅力を感じた点の一つに、溝口が大谷大学へ進学する物語の中盤になって登場する柏木の存在が挙げられる。彼の内翻足に由来する人格は、その苦労ゆえに磨き上げられたものがあり、カリスマ性が感じられる。「吃れ!吃れ!」と他でもない「吃り」をコンプレックスにする溝口を鼓舞する言葉はその象徴だ。両者の出会いの場面も同様であり、用意周到な柏木の語りの明晰さに「なんだコイツ!」と目が覚めた。カルト的な人気をさえ誇る三島の鬼才の片鱗をそこに見た気もする。

映画『ルックバック』を視聴

 ぽつり「やーめた」と事切れたようにこぼし漫画を描くことを諦める原因となった京本との邂逅により、他でもない京本その人と共に作家人生のスターダムを歩み始める主人公・藤本歩の半生を描く作品。
 京本の存在を糧とする制作行為は、いつしか京本との死別によってさえ止めらるものではなくなっている。それは幼き日々の危く不安定な「好き」が、いつしか生きる手段としての「仕事」へと昇華されたことを暗示してもいる。その尊い過程を、物語の冒頭と終末部において、主人公の背中に語らせている点に痺れた。冒頭の滑空描写は、メニエール患者である私にとって苦痛なものとなってしまったが、灯りの灯る家屋群の中から、描き続ける主人公の背中がスクリーンに映し出されると開幕5分と経過しないうちに目頭が熱くなるのを感じた。そして、それを踏襲した終末部によって本作が締め括られるのだ。
 本作の白眉もやはり「やーめた」からの場面だ。サントラ「rainy dance」と共に表される主人公の押さえきれない制作の喜びに触れてしまうと、スイッチを押したかのように自動的に涙がこぼれ落ちてしまう。そうした感動を下支えしているのは、すこし「ふかす」主人公の強気な性格とその影で人並みならぬ努力を継続する「背中」を視聴者が既に知ってしまってあることにある。
 また、本作のエッセンスは、もう一人の主人公である京本の存在にも凝縮されている。その事実は、主人公たちの「藤」野と京「本」が作者の名前に由来することで証明される。業界を震撼させた京アニ事件の鎮魂は、「京」本の死をもって達成されるが、このストーリー展開は、やはり唐突なものであったと言わざるをえない。少なくとも原作半履修者である私にとっては。本作の意図を事前に知っていればまた違ったのかも知れないし、2回目の視聴体験は、全く別質のものとなるのかも知れない。それでもなお、作者の片割れである、京本が「引きこもり」から外界に飛び出し、大学生活を送るという壮大な挑戦が十分に可視化されないまま終焉してしまうことに、ご都合主義的な香りが漂ってしまったように思う。もちろん、そのような難癖は、本作の価値を1mmも損ねるものにはならない。

中央公論8月号より特集「AI時代を生き抜くための事務」を読了

 先日の事務学会の研究集会以来、「事務」への関心が高まっている。そこに来て、中央公論で特集が組まれていたのだから読まない訳にはいかない。経済学者の大竹先生や辛酸なめ子氏等、有名どころも寄稿されており楽しむことができた。

 辛酸氏の記事は『ショムニ』や『総務部総務課 山口六平太』等、事務職員が主人公の漫画が紹介されており捗ったが、事務論としては近著に『事務に踊る人々』をもつ阿部公彦氏らによる対談(18-29)や『月刊総務』(さっそくメルマガ登録をした)の社長の豊田健一氏の論考(38-45)が参考になった。

 対談では、「事務作業では特に注意力が必要となり、ときには凝視を促す側面もある」(20)、「事務とは、何らかの取引が発生するとき、基本的に売り手側に生じるもの…利益を得る側が事務処理を負担するという構造です」(20)との言説から、事務は「積極的にやりたいものではない」という事務観が現われていた。また、「人々が事務を事務として受け止める大きな理由の一つは、『分業』だと思う…最終的な目的があったとしても、その手段が分業によって切り離されると、目的を見失います」(22)との言説にあるように、その目的の見えづらさが、上記の事務観を下支えしている様に思われる。

 だからこそ事務職員のマインドセットのあり方は論点となる。「(総務が)デキない人は、『ルールがこうなので、例外は認められない』『先輩の言うとおりに』と、前例を守ろうとします」(39)との批判は、ともすればそうなりがちであることを指摘している様に思われるし、「現状を疑い、一歩前へ踏み出すマインドへと切り替える。総務の仕事の醍醐味はそこにあります。自分で発案、実行した結果、会社が良いほうに変わっていく。仕事を通して創造の喜びを感じることができるのです」(39-40)との指摘は、学校事務にも刺さるのではないかと思った。

 また、事務といっても、その内実はより細分化されうるが、「マイナスをゼロにするためではなく、ゼロからプラスを生み出すための作業となると、『事務』という語感はしっくりこない」(22)、「総務を突き詰めると、経営者に行き当たります」(40)との指摘は、事務と経営の隣接関係を指摘する言説といえそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

教育事務とは何か

 先日、主に九州圏の学校事務職員の面々と共に昨年の秋から企画・準備を進めてきた日本教育事務学会の研究集会を開催した。午前中の企画では、学会名としても冠されている「教育事務」そのものが問われた。

 教育事務とは何か?この問題に向き合う中で改めて考えたのは、「事務」が「経営」と近い概念であるということだ。というのも、事務や経営は、自体はそれ単体では営みとしての実務上の目的を持ち得ない点に共通性があるように思われるからだ。例えば、未来において「私は経営がしたい」という意思を表明する行為は、ともすれば「何がしたいのかはわからないが、社長にはなりたい(あわよくば、金持ちになりたい)」といった、無邪気な子どもの意思表明として解釈されうるだろう。なぜならば、経営という営みは、その組織の目的達成に向けた資源活用の最大化を目指すものであり、対象となる組織によって達成を目指す目的や目標は異なるからだ。「私は学校経営がしたい」あるいは「病院経営がしたい」との意思表明であれば、教育や医療に対する志しが垣間見えるのは、この様な理由によるのである。同様に、「私は事務がしたい」との意思表明は、特定への業態への志向性を看取できたとしても、「学校事務がしたい」「医療事務がしたい」との意思表明ほどの具体性を伴うものではないだろう。

 しかし、そこにきて難儀なのは「事務」なる概念の曖昧性であろう。学校事務をとっても、その主たる担い手である職員の仕事は法令上「つかさどる」と規定されている。「つかさどる」とは、畢竟、経営実践である。つまり、その職名として冠される概念は、必ずしも職務内容と一致していないのである(もちろん「学校経営職員」等という職位が必要だと言いたいわけではない)。このように「事務」なる概念は、実務上も「経営」と密接に結びついているといえる。例えば、なんらかの組織の「事務局」の仕事は、組織の方針を決定する等、経営的営みを行う「理事会」等の「場づくり」をその本懐とするものと解釈できるように思われる。現実には、その「場づくり」に一定の意図を持って、審議結果への影響力が行使されていることは想像に難くないが、本来的には、「事務局」というのは、「場づくり」を粛々と、それこそ「事務」的に行うのが仕事であり、そこになんらかの「意図」を介在させることを想定している概念とは言い難い。理念的には、ここに「経営」との決定的な違いを見出すことはできそうである。この意味で、「事務」とは、「経営」というよりも「管理」に近い概念といえるのかも知れない。その様なことを考えた。

 

追記(2024年7月30日)

・清原正義(1997)『学校事務職員制度の研究』学事出版の21頁に「学校経営職員」の文字列を確認。清原氏は、学校事務職員を学校経営職員の一つとして位置付けているようだ。

差別に向き合うこと

目次

 

はじめに

 「バカチョンカメラ」という言葉を知っているだろうか。僕は知らなかった。「バカ」でも「チョン」(朝鮮人)でも使える簡単な作りのカメラのことを言うらしい。これを聞いて思い出したのが「このバカチョンが」というフレーズ。もしかしたらこれも朝鮮人に対する差別発言なのかもしれない。武田鉄矢扮する金八先生のセリフとして「このバカチンが~!」が有名だったりするが、これもそうなのだろうか。武田鉄矢氏が極右思想の持主であるという噂をきいたことがあるからうがった見方をしているかもしれないが。

 前置きが長くなったが、昨日(2021年3月6日13時30分~15時00分)は、宇佐市にある隣保館で開かれた人権講演会「共に生きる社会へ―ヘイトスピーチを体験して―」に参加した。人権という身近で、かつ重大なテーマについて、聞いたこと・感じたことをきちんと言葉にしておく必要があると強く思った。だから、それをここに記録したいと思う。

 冒頭の話題で察しがつくかもしれないが、講師は在日朝鮮人の徐 麻弥(ソ マミ)さんという方だ。実は妻の学生時代からの友人で、その縁で昨年末にお会いする機会を得ることができ、その後、この講演のことも教えていただいた。

 講演内容は、主にヘイトスピーチを中心とした在日朝鮮人差別の現状とヘイトスピーチを含む講師の差別経験という二段構成で、日本における在日朝鮮人への差別の実態やそれにかかわる法制度、そして個として差別を受けることの意味について考えを巡らせる時間になった。

 

なぜ在日朝鮮人は、日本に多く存在しているのか?

 まず冒頭から私の恥を晒さねばならない。というのも「なぜ日本には『在日朝鮮人』が多く存在しているのか?」という問いにきちんと答えることができなかったからだ。

 在日朝鮮人とは、大日本帝国による朝鮮の植民地支配の結果、旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮民族とその子孫のことを指す。この定義が答えなのだ。もし植民地支配がなければ、今や4世が誕生しつつある在日朝鮮人は、日本にこれほど多く存在していることはなかったと考えられる*1

 その国籍は、韓国籍朝鮮籍、日本籍のいずれかに収まることになるが、制度上の国籍とは別に自身のアイデンティティを表す呼称として「在日朝鮮人」の他に「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」等の表記が存在している。

 

なぜヘイトスピーチはなくならないのか?

 講演では、ヘイトスピーチにまつわる日本の現状から話が始まった。

 ヘイトスピーチとは、「差別的意識を助長・誘発する目的で、生命、身体、自由、名誉、財産に危害を加えると告げることや、著しく侮辱するなどして、地域社会からの排除をあおる差別的言動」と定義される。

 2010年代から広がり、それに対応する形で2016年に対策法(「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(通称、ヘイトスピーチ解消法))が施行されている(これに「 障害者差別解消法、部落差別解消法を合わせて3本の差別解消法が同時期に施行されたそうだ。)なお、ヘイトスピーチは2013年の新語・流行語大賞のトップテンに選ばれている。

 この法律は「「不当な差別的言動」は許されないものであると宣言」するものだと法務省のウェブページで説明されている。それは裏を返せば、ヘイトスピーチに対する罰則規定がないことを意味する。無論、法の施行が差別解消に向けて前進を意味することに違いないのだろうが、その冠する名称ほどの実効性を期待できない点に肩透かし感を感じてしまう。

 ただ、先ほどのヘイトスピーチの定義を見れば、なぜこれが法で裁けないのかという素朴な疑問を抱いても可笑しくない。例えば、「特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えると告げる」行為は脅迫罪(刑法第222条)に該当しないのかという疑問だ。実は今日の講演の予習としてこの辺りの事は調べておいた。

 結論から言えば、脅迫罪に該当することもあるという理解になるのだと思う。僕の解釈では、論点は脅迫が特定の個人に向けられたものであるか否かだ。ヘイトスピーチは、在日朝鮮人に対して牙を向く行為であるが、それは特定の○○さんを名指しするものではない場合が多い。ヘイトスピーチを法令で禁止することが、憲法の保障する表現の自由に抵触するといった主張もここからくるものだろう。個人的には、ちゃんちゃら可笑しな話だと思う。なぜなら特定の個人を名指そうが名指すまいが、それがたとえ不特定多数に対する脅迫であったとしても、それは当該の属性を有する個人に対して、十分な効果を発揮するからだ。仮に自分が海外に居住していたとして、街角で行われる「日本人は殺せ」という演説を平然と「あれは不特定多数に対する主張であり、僕に直接投げかけられたものじゃあないから」と受け流すことができる人がこの世にいるだろうか。身の危険を感じるのが、生物としての正常な生存本能だと思うし、まして、こうした演説を自由な表現行為として行為者の権利を認めようとする者など想定し難い。つまり「自分がやられて嫌なことはしてはいけない」という小学生でも理解できる水準の話を、なんだか小難しい話を持ち出して煙に巻いているようにしか思えないのだ。これを姑息と言わずしてなんというのだろうか。

 現状ヘイトスピーチに対する国内法の罰則規定に関連しうるものとしてネットに挙げられていたのは、(1)名誉毀損罪・侮辱罪、(2)脅迫罪、(3)傷害罪、(4)信用毀損罪・威力業務妨害罪、(5)器物損壊罪あたりであった。ただ、これらもヘイトスピーチに対する直接的な罰則規定としては不十分である。

 「扇動 罪」でGoogle検索すると「民衆扇動罪」(ドイツ刑法典130条)に関するWiki情報が上がってくる。ナチスの台頭を反省した結果として「民主主義を否定することを認めない民主主義」という理念のもと「民主主義の否定やヘイトスピーチと認められる言動に対してドイツ人・非ドイツ人問わず刑事罰を課す」のだそうだ。最長で禁固5年になるらしい。日本にもこれくらいの法律が施行されなければ、ヘイトスピーチはなくならないのではないだろうか。

 …と、脱線が過ぎたが解消法の施行によって変わったこともあったそうだ。

 講演会のスライドでは「行政、裁判、事件報道、民間業者の対応」が変わったと記述されていた。YouTube等に上がっているヘイトスピーチの様子を撮影した動画を見ると、スピーチの実施者を囲むように県警が並んでいる様子が印象的だが、あれはスピーチを行うものを取り締まっているのではない。警察の目的はヘイトスピーチを止めることではなく、「デモ」を安全に終わらせようとすることなのだ。そうした警察の対応も、在日朝鮮人の人権を守る方向に変化がみられつつあるという。

 また、民間業者の在り方で言えば、アフィリエイト(成功報酬型広告)の在りかたに変化が生じている。ネット右翼の存在が証明しているように、在日朝鮮人を差別する記事を書くことは、特定のニーズを満たすものだ。これに目を付け、ブログなどに記事を書くことで小銭を稼ぐ人がいる。ただ、当該法律が施行されてからは、企業側も記事の内容に応じて依頼を取り下げるといった事例が生じているのだという。

 

ひとりの日本人としてヘイトスピーチとどう向き合うか?

 法律の施行に伴い、社会に変化が生じていることは、少し希望が感じられるニュースだ。ただし、差別問題の根本的な解消には個人の思想や行動への波及効果を求めていく必要があることは言うまでもないことだ。講演会では「トレーニングと発信」の必要性に言及されていた。

 僕の職場は、北九州市のJR折尾駅の近くだ。実は2019年にあの駅で行われた演説が遅れること約1年後にヘイトスピーチに認められたのだという。認定に要した時間の長さには驚かされるが、これは私の生活圏内でヘイトスピーチが行われる可能性が十分にあるということを意味している。もしその現場に出くわした時、自分には何ができるだろう。

 麻弥さんは、実際にヘイトスピーチを受けたことがあるという。もし自分が同じ経験をしたときにどうなってしまうのか、想像もつかないが、その時彼女が気丈にふるまうことができたのは、その場にいた仲間が「同じ場所で共に暮らしている仲間を傷つけるようなことを言うな!」といった趣旨の主張をしてくれたからだという。

 これは勇気のいることだと思った。でも、そう思って気が付いたことがある。そもそも勇気が必要なのはなぜなのかということだ。間違っていることを指摘することになぜ勇気が必要になるのだろうか。これは自分が位置する場所が、差別する者とされる者の外にいるのだと思い違いをしていることを意味するのではないだろうか。その安全圏から飛び出して、差別する者とされる者が対峙する場に足を踏み入れることが勇気を求めるのだと思う。先ほど「思い違い」という言葉をチョイスしたように、この理解は誤りだ。差別をする者を見て、見ないふりをすることは、差別に加担する行為といえる。だから本当は差別を目の当たりにしたときに、自分が差別に加担しないようにするには、差別に対する「No!」を表明する以外に方法はないのだと思う。僕はこれまで在日朝鮮人の差別について、知らないことが多すぎた。でも、麻弥さんや麻弥さんの家族と出会い、在日朝鮮人と聞いて人の表情が鮮明に思い出されるようになったことは、この問題に対する当事者意識を芽生えさせてくれたように思う。

 

経験された差別

 在日朝鮮人への差別は、ヘイトスピーチのような明示的な形でなくとも、私たちの日常生活に潜んでいることも学んだ。

 家を借りる時、在日朝鮮人であることを理由に、親以外で県内に在住する保証人を出すことを求められる、バイト先で名前を日本風にするように求められる(創氏改名の現代版のようだ)、結婚式に参列する際にチマチョゴリ(チマチョゴリは、自身の民族的アイデンティティを確認することのできる物の一つだが、過去にはチマチョゴリを着る者に危害を加える事件があったことを僕はこの公演で初めて知った。詳細はチマチョゴリ切り裂き事件を参照されたい)を着ることを敬遠される、結婚をするにあたって、在日朝鮮人であるというだけで、相手の両親に忌避されること、他にも永住権を持っているにも関わらず、再入国時に許可を得ることが必要なこと(他の民族は2年以内の出入りに許可申請が不要なのだか、驚くべきことに在日朝鮮人はそこからも除去されている)、同じように消費税を納めているにもかかわらず、保育料が無償化されていないこと(今、署名活動が展開している)。挙げれば枚挙に暇がない差別の事実に、そのようなことを知らず、同じ日本というこの国で平和に暮らしてきたことに罪悪感が芽生えてくる。

 

罪の意識

 勿論、僕はこれまで差別を積極的に行なってきたわけではない。でも、残念なことにそれに加担してきた事実からは逃れることができない。差別に対するこれまでの自分の不作為はやはり罪なのだ。

 だからこそ自責の念にかられ、贖罪の方法を模索しないではいられなくなるのだが、こうした心情の移ろいに対しては、意識的であるべきだと思う。なぜならこの感情には防衛規制が働く可能性があるからだ。自分の罪を意識し続けることは、精神的に楽なことではない。そのため、事実から逃避する事でその負担を除去しようとするのが生理的な現象なのではないだろうか。

 罪の意識から逃れ、自分を擁護したくなる気持ちと向き合うなかで、本当に見失ってはならないのは、差別を受ける者の人権なのだ。

 

憎しみとの付き合い方

 差別の事実と向き合う中で、罪悪感の他に芽生えたのが憤りだ。約90分の講演は僕にとって一瞬の出来事だったが、その間に消費されたエネルギーは、相当のものだったと思う。語弊を恐れずに書けば、それくらい「疲れた」。その原因は、目まぐるしく移ろいゆく感情にあるのだと思う。この会を通じて参加者は、講師の受けた差別を疑似的に経験し、時に深い悲しみに苛まれ、時に激しく憤る。

 こうした体験を振り返るなかで、心に留めておきたいと思われたのは、「憎しみとの付き合い方」とでもいうべきテーマだ。

 先の折尾で行われたスピーチの中には、「韓国人は東日本大震災を祝福している、そのような行為を許すな」という趣旨の主張があった。あるサッカーの試合で、観戦席に掲げられた横断幕にそういった趣旨の文章が掲載されていたことは事実なのだそうだ。ただし、ここで急いで指摘しなければならないのは、そうした事実を拡大解釈し、あたかも「韓国人」という民族が、日本人の被災を喜んでいるといった誤った「事実」を吹聴し、民衆を扇動する行為の卑劣さだ。

 残念なことに、上記と同質の扇動行為は、ネット上に蔓延しており、多くの人々を巻き込みながら「憎しみ」を増幅し、終わることのない不毛な水掛け論を生み出し続けている。「憎しみ」は攻撃性を持った感情であり、嫌韓嫌日の源泉となっているのだとすれば、差別問題を考える上で、「憎しみ」という感情から適切に距離を置く力が求められるのだと思う。そうした難しさがこの問題にはあるのだと思う。

 

さいごに

 講演の最後で参加者に向けて送られたメッセージは、「声なき声を聴く 伝えていく みんなと共に 人間を諦めずに共に 子どもたちを加害者にしないために 子どもたちを被害者にしないために みんなが自分らしく いきいきと生きられる『豊かな社会』の実現」にむけて「やさしさと勇気」を大切にしようというものだ。

 このメッセージを自分の立場に引き付けて受け止めるならば、人権について学んだり教育したりすること大切さだと思う。

 麻弥さんは、高校生の頃に「朝鮮文化研究会(朝文研[3])」に出会い、そこで「在日朝鮮人ってたくさんいるんだ!」と驚いたそうだ。この経験の裏にあるのは、在日朝鮮人の多くが、民族名ではなく日本名を名乗らざるを得ない実情だろう。

 彼女の親戚は、小学生の頃に喧嘩をした際「韓国人のくせに」と級友から罵られたことがあるそうだ。問題の深刻さは、誹謗中傷の手段として小学生が民族性に言及したという事実にある。なぜ小学生のうちからそのような思想が定着しているのだろうか。講演では、「『みんな』と違うことは悪である」という価値観が、小学校の段階で育まれている可能性に言及されていた。

 差別問題には、よく「寝た子を起こすな」という主張が持ち出される。差別の事実を知らなければそこに走ることはないという考え方だ。ただ、こうした考え方は、先ほどの小学生の例に照らせば明確に誤りだといえる。小学生はすでに目覚めているのだ。まして、ネットが発達した現代社会では、目覚めが加速されており、恐ろしいことに偏った思想を注入する装置としても機能している。

 だからこそ、子どもの頃から人権感覚を磨いていく必要があるし、子どもたちに背中で語れる大人の存在が必要なのだと思う。年齢に限ったことではないが、僕らは本当に信頼のおける人間の言葉にしか耳を貸す事ができない生き物だ。教員養成に携わる身として、差別の再生産に片棒を担ぐことのないように、まずは我が振りを直すことから始めなければならないのだ。

*1:歴史的経緯を知っていれば、ヘイトスピーチにおける常套句の一つである「日本が嫌なら国へ帰れ」という主張がいかにアンフェアで卑劣なものかがよくわかる。。

高等教育に関して最近感じたこと

東洋経済が「就活は大学1年生から」と言ってるけど、「学生には勉強に集中させてあげてください」と心底思う。」(https://blog.tinect.jp/?p=49771)

最近、卒論の意義とかについて色々と考えさせられる出来事があったので、この記事をよんで思ったことを少し頭の体操として考えてみようと思う。

この記事で主張されていることに、あえて批判的な視点を探してみる。すると、大学生の間に学ぶべきことはいったい何なのかという議論が抜けているような気がした。大学生の間だからこそ大学の外でしか学べないことを学ぶことができるというのもまた1つの事実なのではないかという考え方だ。

4年間というモラトリアム期間を金で買って(もらって?)、その時間を羨ましいくらいに自由に消費し、謳歌してきた世代つまり、必ずしも学問に向き合うことだけが大学生の時間の使い方ではないと信じている人が多い世代からすれば(この見立てが妥当かは批判的な検討が必要だけど)、就活生に期待するものが「一緒に働きたいと思える奴かどうか」という印象に基づく、いわゆるコミュ力とか社会人基礎力に傾いてしまうのは至極当然なのではないかと思う。

たとえ専門性を極めることで得た知識やそれを活用して、批判的に思考する能力が極めて優れていたとしても(この力を身につけるだけでも一筋縄では行かない)、例えば、社会に身を投じていく過程で、向き合わざるを得ない沢山の不条理を受け入れていく力が備わっていなければ絵に描いた餅ばかりが生まれるだけになってしまうわけで。

問題の所在は、高等教育をサービスとして消費する社会(明確な目的意識を持ったものだけが、進学するのではない社会とか、5割が大学に進学する社会とか言い換えられそう)において、社会が生産活動の質をより高められる人材をどのように育んでいくべきかについて、明確なビジョンが描けていないことなのではないか。

個人的には、大学の4年間を思っ切り遊び倒すために特化して時間を使う学生がいてもいいと思う。まあ、そういう人よりも、ちょっとくらいとっつきにくい人柄でも1年生から学部の専攻にどっぷり浸かって、朝から晩まで読書したり、友人と喧嘩まがいの議論をやりあったりすることができる人の方が圧倒的に好感がもてるけども。

話を元に戻すと、企業の青田刈りを批判するのは簡単だから、企業が学歴というシグナルに依存するという安直な態度を改め、高卒であっても果敢に社会に進出していこうとする気概のある若者を積極的に評価して、育てていこうとする(やはり気概のある)姿勢を持てるよう、社会的にそういった企業を応援していく風土をいかに育んでいけるか、という点こそが論点なのではないかと思った。

「ハンナ・アーレント」(字幕版)を鑑賞した

Amazon 「prime video」のサービスを利用してみた。

 このサービスの利点は、300円ほどの手頃な価格帯で、観たいと感じた時にその場で、色んな映画をレンタルできてしまうことだ。購入後約1ヶ月以内は鑑賞可能というのもありがたい(ただし再生ボタンを押した後は、その後3日間のみ再視聴可能)。

難点は没入感があまり得られないことか。アクション系を観て爽快感を得たいだとか、感動してストレスを解消したいだとか、そういうときには映画館に行った方がいいんだろうな。まあ、このサービスに関わらずDVDとかもそうだし、あたりまえか。個人的にはサービス内容には十分満足することができた。

 

さて、内容についてざっくり整理すると、ユダヤ人として差別を受け、命の危機に瀕した経験をもつハンナが、「悪の凡庸さ」を発見するお話。またその前後のハンナの生活を描いたもの。

ユダヤ人の中にも、消極的であれ差別行為や虐殺行為に加担してしまっていた者がいたというハンナの主張が、さまざまなところから強烈な批判となって返ってくる様子が描かれる物語の後半は、学問人だとか知識人だとか、なんらかの価値規範について、職業として主張を行うような人々が背負っている社会的な責任の重さを学ぶ上でよい教材になると思った。どれだけ批判を受けても、その批判点と照らし合わせた上で、それでもなお自分の主張は間違っていないという態度を貫いたハンナ・アーレントの偉大さに触れると、知識人なんていう言葉はチープになったなぁと思う。ネットを介して誰もが気軽に、不特定多数に対して主義主張を発信できる世の中では、誰もが上述した責任を負っているわけで、チープさは批判されるべきことではなくて、むしろ望ましいことなのかもしれないと思ったりもする。

 

余談になるが、ハンナの主張に対する批判は、的を射たものではなかったとして、「炎上」は一度おさまるのだが、彼女の「BOSS」であるハイデガーとの子弟の壁を超えた不倫関係が暴露されることで「再燃」したのだとか。つまり、彼女の主張は真理を探究する行為としてのそれではなく、愛人であった者としての単なる愛情表現の域を出ないというわけだ(ハイデガーは、戦時中ドイツ側についていた)。劇中では、この点についてはソフトに描写されているが、いつの時代も人々のゴシップへの関心は変わらないんだなーと。