高等教育に関して最近感じたこと

東洋経済が「就活は大学1年生から」と言ってるけど、「学生には勉強に集中させてあげてください」と心底思う。」(https://blog.tinect.jp/?p=49771)

最近、卒論の意義とかについて色々と考えさせられる出来事があったので、この記事をよんで思ったことを少し頭の体操として考えてみようと思う。

この記事で主張されていることに、あえて批判的な視点を探してみる。すると、大学生の間に学ぶべきことはいったい何なのかという議論が抜けているような気がした。大学生の間だからこそ大学の外でしか学べないことを学ぶことができるというのもまた1つの事実なのではないかという考え方だ。

4年間というモラトリアム期間を金で買って(もらって?)、その時間を羨ましいくらいに自由に消費し、謳歌してきた世代つまり、必ずしも学問に向き合うことだけが大学生の時間の使い方ではないと信じている人が多い世代からすれば(この見立てが妥当かは批判的な検討が必要だけど)、就活生に期待するものが「一緒に働きたいと思える奴かどうか」という印象に基づく、いわゆるコミュ力とか社会人基礎力に傾いてしまうのは至極当然なのではないかと思う。

たとえ専門性を極めることで得た知識やそれを活用して、批判的に思考する能力が極めて優れていたとしても(この力を身につけるだけでも一筋縄では行かない)、例えば、社会に身を投じていく過程で、向き合わざるを得ない沢山の不条理を受け入れていく力が備わっていなければ絵に描いた餅ばかりが生まれるだけになってしまうわけで。

問題の所在は、高等教育をサービスとして消費する社会(明確な目的意識を持ったものだけが、進学するのではない社会とか、5割が大学に進学する社会とか言い換えられそう)において、社会が生産活動の質をより高められる人材をどのように育んでいくべきかについて、明確なビジョンが描けていないことなのではないか。

個人的には、大学の4年間を思っ切り遊び倒すために特化して時間を使う学生がいてもいいと思う。まあ、そういう人よりも、ちょっとくらいとっつきにくい人柄でも1年生から学部の専攻にどっぷり浸かって、朝から晩まで読書したり、友人と喧嘩まがいの議論をやりあったりすることができる人の方が圧倒的に好感がもてるけども。

話を元に戻すと、企業の青田刈りを批判するのは簡単だから、企業が学歴というシグナルに依存するという安直な態度を改め、高卒であっても果敢に社会に進出していこうとする気概のある若者を積極的に評価して、育てていこうとする(やはり気概のある)姿勢を持てるよう、社会的にそういった企業を応援していく風土をいかに育んでいけるか、という点こそが論点なのではないかと思った。