教育実践という対象の所在と教育実践を学問するための方法に関する試論

「教育実践学の射程と方法について論じよ」という問題について、以前から定期的に向き合う機会を大学の授業でいただいてきた。当初は、「教育実践」という概念をどのように捉えればよいのかわからなかったことが原因で、トートロジーを感じながらの自分の論述に苦しんだ記憶がある。

 
 
 
当時の苦しみの中で仕上がってしまった頭の中の混線が、するりとときほぐされたかのような感覚を覚えたのが、先般『制度ー人類社会の進化』(河合香吏編著,2013年)の序章を読んでいた時のことであった。学府内のつながりから、近隣の大学を巻き込み生まれた「自主ゼミ」での課題図書だ。
 
 
本書では、そのタイトルである「制度」という概念そのものへの検討がなされている。興味深いと思ったのは、実践(プラクティス)という概念が制度を捉える上で重要な関係性をもちうるのではないかという主張にある。本書では、実践を下記のような概念図において端的に明示している。
 
 
 
図 「「実践(プラクティス)」の概念に関する図式」
 
[觀念]institution ↔︎ convention ↔︎ practice↔︎ (interactive)behaivour[身体]
 
 
 
上記の図式が示しているのは「行為や行動の集積から習律や習慣、つまりコンベンションを導く」際に、その中間項として、実践(プラクティス)なる概念を想定してもよいのではないかという提案である。実践(プラクティス)という語は、人類学において常習行為、慣行、慣例、習慣、ならわし、癖などと訳されてきたそうであるが、「なんらかの行為、行動をする明確な理由、あるいは行為・行動のプロセスについての意義や「気づき」がそこにはない」のが実践であるとされている(10頁)。
 
 
 
教育実践学が「教育実践」なる対象を前提とした学問であると考えるならば、教育現場に置いて、その行為を行う際に明確な理由が共有されていないケースが、まさに教育実践たりうるのであろう。学問が、そこで生じるすべての現象を体系化することの試みであるとするならば、教育実践学という学問は、その対象たる教育実践とはなんであるのか、を先の定義に準じて模索することから始まる学問領域といえるのではないだろうか。
 
 私が卒業論文の中で取り扱おうとした、教師がめあてを導入時に板書するという行為は、まさに上図のどこかの中間項に位置するのではないかと感じたことも、先述したような感覚を覚えた理由のひとつだったのかもしれない。